3日で出した罹災特別号

シェアする

校舎変遷その2 で記した1958年2月の火災。当時の新聞部での奮闘ぶりを紹介します。創立85周年記念に創られた「湘高新聞縮刷版」に寄せられた記事です。

3日で出した罹災特別号          神谷紀一郎(34回生)

「湘南が燃えたよ」--母の声で飛び起き、朝食も取らずに家を走り出た。昭和33年2月のそんなに寒くない日(と記憶している)の朝だった。

国鉄・大船駅で乗り換え、何人かの級友と一緒になり情報交換したが、どのくらい燃えたのか、はっきりしない。藤沢駅から走るように湘南へ向かった。

校舎も焼け落ちていた。中庭の部室も焼け跡の中だった。壁を飾っていた、先輩諸氏の思い出でもある幾多の新聞コンクール入賞の賞状、トロフィー、盾などから、保存してあった過去の新聞、普段の活動に必要な原稿用紙から部員の私物など、すべて焼けた木材の下で灰になっていた。

見て歩いているうちに、少しずつ「全校に元気を出させるためにも、新聞を発行しなければ」という思いが膨らんできた。ぼう然と焼け跡に立つ部員に言った。「新聞を出そう」。驚きながらも部員たちは「やろう」と応じた。

しかし、どうしたらいいか分からない。資材もない。いつもは新聞発行には2週間以上はかかる。印刷を依頼している神奈川新聞に電話した。「新聞を出したいんですが……、1週間くらいでできますか?」。神奈川新聞の担当者が言った。「1週間?何言ってるんだ。こんな時は最低でも3日で出さなきゃダメだよ」。

1~2日で取材・編集・割付・3日目に印刷・校正・発行……そんなことができるのか。と思いながら、経理・広告担当の長谷川昇君を中心に、藤沢市内での「近火見舞い」の広告集め、筆の立つ千葉赫夫君を中心に焼け跡の模様を詳細なルポに書くーーなどの割り振りを決めた。

焼け跡の写真は自分たちで撮影したが、当日の毎日新聞朝刊が燃えている写真を掲載していた。記録としても掲載したいと考え、横浜支局へ提供をお願いしたところ、快く応じてくれた。そうこうしている所へ、隣の県立藤沢高校新聞部の部長さんらが見舞いにきて、原稿用紙や割り付け用紙などの提供を申し出てくれた。ともにありがたかった。

焼けなかった生物部の部室の一隅を借り、臨時の部室として編集にかかったが、3日間がどう過ぎたかは記憶に定かではない。ただ、広告があふれるほど集まったこと、いつもの校内立ち売りで、2ページの特別号は飛ぶように売れたこと、「高校新聞でこれほどの早さで発行したことは例がない」と神奈川新聞などで言われたことは覚えている。のちに県高新連新聞コンクールで「佳作」を受けた。

焼け跡を見て「こんな時こそ、新聞は出すもの」という思いと同時に、先輩から引き継いできたものが、自分たちの代にすべて灰になってしまったことに申し訳ない、という気持ちがあったことも確かだ。それを多くの人の力が後押ししてくれた。50年近くたった今、あらためて感謝の思いでいっぱいだ。

<投稿された神谷さん、文中にある千葉さん、残念ながら既に鬼籍に入られております。>

<湘高新聞縮刷版は歴史館に保管されています。どうぞご覧になって下さい。>